脳研究の創始者たち

脳研究所の創始者たち --その心柱と礎--

新潟大学名誉教授 生田房弘

新潟大学脳研究所が、今日ともあれかくある迄には、その「しんばしら」のもと、折々に礎となって下さった方々は実に多い。そのほぼすべての方々はそのお名前さえここに留められないことを予めお詫びしつつ、以下の文を書きたい。

その心柱と学内の礎たち3,4)

新潟大学脳研究所の「心柱」は、やはり「中田瑞穂先生」3)をおいて、他にないと思う。

中田先生は、明治26(1893)年4月24日、津和野で出生され、24歳で東京帝国大学を卒業し、近藤外科に入局された。大正11(1922)年4月、29歳で新潟医科大学外科教室助教授 兼附属医学専門部教授として着任された。この年の秋、北原白秋が当時は唯一の信越線を経て新潟を訪れ、小学生達に "海は荒海、向こうは佐渡よ・・・"の「砂山」を作詞している。

当時は、精神科以外の脳疾患は内科が担当し、脳だけを扱うという教室はまだ全くなく、外科は外表と消化器を対象としていた時代であった。

たまたま昭和7(1932)年38歳の時、初めて中田先生の前に脳腫瘍(髄膜種)の患者が訪れ、最初の脳手術が施行され、また奇しくも後に述べる伊藤辰治先生の叔母様と耳にした脳腫瘍の剖検例もあったという。その後先生は夫人をなくされ、43歳の時、H. Cussing、W. E. Dandyなど、脳外科に特化した先生方を見学して回られている。この時、迅速さをモットーにしてきたドイツ学派の手術ではなく、一歩一歩、止血を繰り返し乍ら進める、理に叶ったクッシングらの脳の手術法に強い共感を覚えて帰国されたという。以後、先生の思いは脳に集中してゆく。

昭和13(1938)年45歳の時、「新潟神経学研究会」(現在の新潟脳神経研究会)を発足させた。この第1回の会には、平澤 興先生(解剖)、赤崎兼義先生(病理)、柴田経一郎先生(内科)、中村隆治先生(精神)等の教授の他、35名が出席し、会の名称を決め、今後隔月に行うこと、年1回は懇親会を持つこと、当分幹事は小池上春芳先生(解剖)、上村忠雄先生(精神)、田中憲二先生(外科)(いずれも当時は助教授)の3名とし、「愚問を発せられても少しも差し支えない会であること」を約束として発足した。その時の主題は「てんかんの外科的療法」と題した中田先生の話で、この記録の末尾に、「皆、少年の日の如き感激を覚え、ひさびさの刺激をよろこび、興奮した・・・・」と第1回集会が締めくくられている。

この第1回集会の後、地道な努力が続いた9年後の昭和22(1947)年、日本最初の「脳手術」書が出版された。その年の10月、昭和天皇の北陸御行幸があり、その折先生が脳外科について進講されている。

この翌年の昭和23(1948)年5月、55歳で先生は、日本外科学会総会を新潟で開催されたが、その閉会の翌日「第1回脳外科研究会(今日の日本脳神経外科学会)」を第一講堂(2013年現在、新築された外来棟の最も東端)で主催された、木造平屋建ての階段講堂で、会長は名古屋の斉藤 眞先生であった。その翌年、南山堂から「脳腫瘍」も出版されている。

ところが、昭和28(1953)年4月、60歳の時、先生は第1回目のワーレンベルグ症候群を発症され、自身で体験された症候を詳細に纏め、その延髄病巣を推論され論文とされている。

しかしその2年後、大脳半球摘除術の第一例を行い、昭和31(1956)年4月、新潟大学医学部教授を63歳で定年退官された。

さて、この退官のほぼ1年前、当時医学部長であった伊藤辰治先生1,3)(写真1)がとられた行動である。伊藤先生は、第二次世界大戦の始まる前、ニューヨーク大学のスティーブンスン先生から脳腫瘍の病理学を学ばれ、帰国後は病理学教室教授として、中田先生による脳手術の全症例の病理組織学的診断をして来られた先生であった。

ところで、中田先生くらい管理運営業務が嫌いな先生はおられなかった。いや、嫌いですんだということは、それを常々カバーしてくださった伊藤先生がおられたからで、中田先生が病理学教室に日参されるのを皆知っていた。そのお蔭で、中田先生はそうしたわがままを一生通して来られたのだと思う。幸せな人でもあった。

この伊藤先生が医学部長として思いつかれたのは、戦争中、天皇陛下の写真1枚が入っていた頑丈なコンクリート造りの奉安殿がどの学校にもあったが、戦後不要となった。この奉安殿に伊藤先生の目が向けられた。中田先生が定年となられる筈の前年、医学部の学内処置として、すなわち本部や文部省の意向を伺う必要なしに、その上に木造の2階建てとし、神経形態学研究室、脳生理学研究室、脳生化学研究室の3研究室を作り、その建物に自称の「新潟大学 脳研究室」と名付けた建物とされ、これを定年後の中田先生を記念する研究室として進呈されることとなった。すなわち、この伊藤先生の配慮と行動無しには、到底今日の脳研究所の萌芽は生まれなかったと言って過言でない。

さて、その翌年、予想通り文部省は一円の予算を出す必要もなく、当時東大に脳研究施設があったため、新潟には中田先生の業績を顕彰する意も込め、「新潟大学医学部 脳外科研究施設」として認可した。

学外で礎となって下さった方々4)

写真2は昭和31(1956)年5月、その自称の「新潟大学 脳研究室」の誕生と、中田先生の退官を祝う記念講演会が開催され、その際その脳研究室前で撮られた記念写真である。その顔ぶれが興味深い。

すなわちこの前列左から、久留 勝先生(大阪大学外科)、次に中田瑞穂先生(63歳)、平澤 興先生(56歳・京都大学解剖)、荒木千里(ちさと)先生(京都大学脳外科)、佐野圭司先生(東京大学脳外科・清水健太郎教授代理・後に教授)、伊藤辰治先生(52歳・病理・医学部長)と並んでおられ、後列左からは、森本正紀先生(耳鼻科)、植木幸明先生(42歳・脳外科)、そして堺 哲郎先生(外科)が見える。

まず学外の礎として、久留先生は金沢大学外科時代から、末期ガン患者の疼痛除去のための知覚路切断術後の脳幹マルキー染色で、ヒト脳幹知覚路を解明することに意を注いで来られ、中田先生のワーレンベルグ症候の自己解析に見られる延髄伝導路の解剖学は、専ら久留先生の分類に従ったものであった。

平澤先生は後に京大総長となられたが、嘗ては第1回新潟神経学研究会を中田先生と共に始められた将に同志であった。

荒木先生は、京都で同時代の脳外科開拓者として、共に歩を進めて居られ、この会で中田先生のこの研究室に 「Klein aber Mein!」 の語を呈された。

佐野圭司先生は、東大脳神経外科教授として中田先生を深く理解されていた。新潟の有志が津和野に中田瑞穂先生 生誕の地をようやく探し当て、平成6(1994)年11月19日(土)、そこに生誕の碑を建てた際、「中田瑞穂先生 生誕の地」の文字の前に、「日本脳外科の父」の一文を是非入れたいと考え、当時自治医大の先生を訪れた私に、静かに間をおかれ、「こういう場合、父は二人となっても良いのでは?」の一言を戴き、この一文を天下晴れて入れることが出来た。

このように脳研究所が生まれ、育とうとする時には、全国にこれら心ある温かい支援者が居られたことも決して見逃すべきではないと思う。

この写真の後列におられる中田先生の後任者、植木幸明先生は当時医学部教授から一人で「施設の教授」に移ることを脳研の将来のために決断された。その後永く施設長としてほぼすべての脳研教授達を選考され、その温厚なお人柄から学内外の信望を脳研に集めてくださった功績は絶対忘れてはならないと思う。さらに、学内では、この写真には見られないが、新潟脳神経研究会など、小池上春芳先生(解剖学)、澤 精一先生(精神科)などの貢献は忘れてならない方々であろう。

なお(写真3)、後に中田瑞穂先生がこよなく愛し続けられた方々2)に、日本における神経解剖学のカハールと呼ばれた萬年 甫先生(東京医科歯科大、解剖)、そしてまた、中田先生のワーレンベルグ症候の自己分析論をさらに解析される論文を書かれた豊倉康夫先生(東大・神経内科)の手書き原稿を読まれた中田先生が、その学問的な真摯さを絶賛される文章を残されたように、お二人は終始、脳研究所の記念講演会などに幾たびとなく足を運び、支援し続けてくださった。後年、脳研の将来を左右する中央の情報を常々伝え続けられた永井克孝先生(東大・医科研・生化学など)と共に忘れがたい方々と考えたい。

国外で礎となって下さった方々2)

写真4は、植木幸明先生の教授室で、昭和42(1967)年4月8日、当時の脳研写真室 倉田 明技官によって撮られたスナップである。私の師でもあったニューヨークの神経病理学者 H.M.Zimmerman教授が第2回目に脳研究所を訪れておられた時、植木先生から「もう中田先生は、部屋で待って居られるよ・・・。」との電話で、現在(2013年)の脳疾患標本資源解析学分野の処にあった木造の病理実験室から先生を案内して行った時の写真で、中田先生が、植木先生との間にジンマーマン先生を招き入れ、私には「君はここ。」とソファーの肘掛けを叩いてくださって、この居並びとなった。

左端が当時開講3年目の神経内科初代教授、椿 忠雄先生であり、次いで植木幸明先生(53歳)、H.M.ジンマーマン先生(65歳)、中田先生(74歳)、そして筆者(37歳)である。お二人の会話は、この時も「や・・・、や・・・」とドイツ語であった。

当時の日本では多発性硬化症は一大学に1例あるかないかという稀な疾患であった。私が、1970年、先生が生涯に亘って米国で集められた多発性硬化症剖検例140例の調査にニューヨークのモンテフィオーレ病院を1ヶ月訪問し続けた最後の日、日本の現状をご存知のジンマーマン先生はその全例の固定組織とデータを私に与えると言ってくださった。

この貴重な脳標本の保存解析のため文部省は急遽、新潟の脳研究所に日本唯一の「脳疾患標本センター」を新設してくれた。これが1995年改組され、「脳疾患標本解析センター」となり、さらに統合脳機能センターや生命科学リソースセンターに発展してゆく原点となった。

その後88歳まで幾度となく脳研究所を訪れられたジンマーマン先生は、将に脳研将来への種子を撒いてくださったという意味で、脳研の歴史の中で、これまた忘れえないご厚意を与えて下さったのでは、と思っている。

なお、私は平成7(1995)年3月を以て脳研究所を退官しているので、その後のことに触れる資格はないが、その年、脳研究所は大部門制となり、脳疾患標本センターは、「脳疾患解析センター」に改組転換し、今日の形の礎が造られた。そう進展させるべくその前々年から申請書は提出されたが、直前になって文部省から突然「米国並びにヨーロッパを代表する各脳研究者による新大脳研究所の外部評価文が欲しい。」との難題が出された。この時、それまで幾度も脳研究所を訪れ、我々の研究内容も知り尽くしていた(写真5)米国はRobert Terry 教授(カリフォルニア大学 サンジェゴ校 脳研究所長)と、ドイツのG. W. Kreutzberg 教授(ミュンヘンのマックスプランク脳研究所長)2)が共に、間髪を入れず、絶賛する推薦書を文部省に送ってくれ、認可された。これらのことも、隠れた大きな礎であったのではと思っている。

Album

(1) 伊藤辰治 先生1):78歳の時
1904年2月生,1985年1月逝去.(ご子息 伊藤勝也氏のご厚意による)
 (2) 「新潟大学 脳研究室」の誕生と中田瑞穂先生 定年退官記念講演会の時.1956(昭31)年5月.
前列左から、久留 勝先生(大阪大学外科)、次に中田瑞穂先生(63歳)、平澤 興先生(56歳・京都大学解剖)、荒木千里先生(京都大学脳外科)、佐野圭司先生(東京大学脳外科 清水健太郎教授代理・後に教授)、伊藤辰治先生(52歳・新潟大学病理学・医学部長).
後列左から、森本正紀先生(本学耳鼻科)、植木幸明先生(42歳・中田先生の後任の脳外科教授として4月就任直後)、そして堺 哲郎先生(外科). この写真は、自称「新潟大学脳研究室」の前で記念に撮られた2,4).
(3) 中田瑞穂先生を偲ぶ集い.生誕100年2).1992(平成4)年6月27日イタリア軒.
A:とめの奥様,B:萬年甫先生,C:豊倉康夫先生,D:永井克孝先生.
(4) 第2回訪問のH.M.ジンマーマン先生と中田瑞穂先生を囲んで.1967(昭42)年4月8日.脳外科植木教授室にて2).
左から、椿 忠雄先生(神経内科・48歳),植木幸明先生(53歳),H.M.ジンマーマン先生(65歳),中田瑞穂先生(74歳),生田房弘先生(37歳・神経病理).
(5) A:Robert.D.Terry先生.1978(昭53)年1月11日. ブレーンカッティング後,当脳研 電顕室にて2).
B:G.Kreuzberg先生.1986(昭61)年10月30日.顔面神経核変性をみるための顔面神経引抜術式のデモンストレーション直後,当脳研実験室にて2).

文献

  1. 生田房弘:私の恩師 伊藤辰治先生.臨床科学22:117-122,1986.
  2. 新潟での神経病理学,写真にみる歩み,生田教授退官記念事業会,新大脳研究所,1995.
  3. 生田房弘:中田瑞穂先生の居室とご自宅に思うこと. 新潟大学脳神経外科同窓会誌 28:8-20,2010.
  4. 生田房弘:新潟大学脳研究所 病理学分野(神経病理学)の生い立ちと歩み. 新潟大学医学部病理学教室開講百周年(2011)記念誌,2012.

学内関連サイト

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