脳の働きを分子から考える

心の場である脳

人の心とはどんなものなのか。記憶・学習はどんな仕組みでおこるのか。好きとか嫌いという情動は何が作るのか。人は古来、心のありかを探してきました。アリストテレスは、心(精神)の場として心臓を考えました。これは、人が死ぬと心臓が止まり、また感情の変動でその働きが変化することを考えるとごく自然な発想です。一方、ほぼ同時期に医学の祖とされるヒポクラテスは感覚器と脳がつながっていることから、視覚、聴覚などの感覚や、喜怒哀楽などの感情、さらに思考や判断などの精神活動の場は脳にあると考えました。ローマ時代になると、脳室に意識や精神のもととなるプネウマ(霊気)が蓄えられ神経を介して働くというガレヌスの学説が出され、それは18世紀の終わり頃ラボアジエらによって生体の熱が脂肪や炭水化物の酸化作用という化学反応であることが明らかにされるまで続きました。またこの時期にガルは、大脳の表面に精神の座があるとする大脳皮質機能局在論を出し、それが頭蓋骨に反映されるという骨相学を作りました。19世紀の終わりから20世紀にかけて、脳の形態学的な観察と生理学的な研究から近代的な脳神経科学が形成されていきました。そして現在では、人の心の場所が脳であることを疑う科学者はいません。1キログラムちょっとの重さの臓器の中で何が起こって、様々な機能が発揮されるのか。我々がこれまで到達したところと今挑戦しているところを具体的な例をあげお話ししたいと思います。

全ての神経の活動は、化学的な反応である

脳は言うまでもなく物質でできています。精神活動のような一見物質的なこととは遠い生命現象も、脳の活動というエネルギーを用いた化学反応により支えられているのです。ヒトの脳は、1011個にもおよぶ神経細胞とその数十倍からなるグリア細胞(支持細胞)、さらにその中に網目状に広がりエネルギーの供給と老廃物の除去を担う血管から構成されています。神経の活動は神経細胞の電気的な伝導と理解されている面が強いのですが、神経細胞が伸ばす突起や軸索は電線ではありません。厳密には化学的な反応で、分子を介して情報を伝えます。ナトリウムやカリウム、塩素など荷電されたイオンが細胞へ出入りするこが電気的な変化ととらえているのです。通常の興奮性の神経伝達は、神経と神経のつなぎ目のシナプスと呼ばれるところで起こります。一方の神経から神経伝達物質と呼ばれる分子が放出され、受け手の神経細胞の膜にある受容体に結合します。すると受容体が変化を起こし、細胞の外からナトリウムなどのイオンが細胞内に流入させます。このことを興奮と呼び、神経細胞が興奮することで情報の伝達がおこなわれるのです。精神活動のような一見物とは関係ないと思われる現象も脳内で起こる分子の運動と変化により起こっているのです。

脳機能の分子メカニズムの解析法

脳は、神経細胞が複雑なネットワークを構築し、細胞間での情報のやりとりを介し膨大な機能を担っていると考えられています。特に、シナプスにおける情報伝達効率の調節が、その機能において最も大切とされています。

しかし、記憶・学習などの脳高次機能と呼ばれる働きを分子レベルで解析することは非常に困難です。なぜならば、これまで分子の働きを解析するのに有効であった生化学や分子生物学の手法では、脳の細胞を取り出したり、すりつぶしたりする必要があるからです。

では、丸ごとの個体でしか評価できない脳の働きを、分子レベルで調べるにはどうしたらよいか。この問題を克服するための非常に有効な手法が、近年著しい発展をとげた遺伝子工学と発生工学によりもたらされました。マウスのある遺伝子を標的にし、この一部に操作を加え、働かなくするノックアウトマウスと呼ばれる変異マウスが作られるようになったのです。このノックアウトマウスを解析することで、特定の分子が果たす役割を個体で検証することが可能になったのです。現在では、生命の設計図である遺伝子に、より自由で多彩な操作を加えた動物個体を作り出せるようになりました。ノックアウトマウス作製技術を開発したマリオ・カペッキらは、この業績により2007年にノーベル医学・生理学賞を受賞しました。

次回からは、以下に示す順序で具体的なお話をします。

  • 記憶・学習に関与する分子群
  • 遺伝子という生命の設計図からのアプローチ
  • 分子と個体をつなぐ研究方法
  • 発生工学の進歩とノックアウトマウス
  • ネズミの学習を測定する
  • コンディショナルノックアウト法
  • 脳研究はどこに向かうか

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